もう、随分前になるけど、2014年6月上旬にカンボジアのプノンペンを旅行してきました。
シャムリアップのアンコールワットにも行きたかったけど、カウチサーフィン経由で、カンボジア人たちとのアドベンチャラスな旅か1人でアンコールかの二択を迫られ、アンコールワットは断念。プノンペンと、シハヌークビルと呼ばれるビーチリゾートに行ってきんです。
極上マッサージ受けたり、ユルい格好でまったりしたり、マリファナ作ってるフランス人眺めたり、シアヌークビルのビーチもなかなか楽しかったですが、やはり一番上心に残ったのはプノンペンで訪れたキリング・フィールド。
カンボジアで非常識な大虐殺が行われていた、という事は普通教育を受けた人なら知っていると思います。
でも具体的にどんな情勢でどんな事が行われていたかは、旅行前は忘れてしまっていました。とにかく「キチガイだった」「ヤバかった」「一方的なバトルロワイヤルやったんたろ?」ことくらいしか覚えませんでした。
そこで今回は、カンボジアで起こった大虐殺について、まとめながら思い出していきたいと思います。
ポル・ポト(クメール・ルージュ)政権までのカンボジア国内のざっくりした流れ
旅行中に改めて思った事は「なんでこんなクレイジーな団体が政権を獲得できてん!」ということ。当時は冷戦の時代。カンボジアの悲劇も、アメリカ資本主義とソ連社会主義のいざこざに巻き込まれただけと捉えることができるかもしれません。
- 1863~1940年 第二次世界大戦前フランス支配
- 1940~1945年 第二次世界大戦中に日本が侵攻
- 1945~1953年 第二次世界大戦に日本が敗戦しフランスが再度侵攻
- 1953~1970年 カンボジア王家のシア・ヌークがフランスを撃退しカンボジア独立(共産主義国)
- 1970~1975年 アメリカの息のかかったロン・ノルがクーデターを起こし政権獲得
- 1975~1979年 ロン・ノルの悪性&アメリカに不満な民衆の支持を得たポル・ポトが政権獲得(亡命していたシア・ヌークを利用したあと軟禁する)→カンボジア悪夢の始まり
名前だけクールでかっこいい、狂ったポルポト率いるクメールルージュが政権を獲得できたのは、以下の理由のお蔭なのでないかなと思います。
・ポト・ポトは反米という意見で一致する、絶大な影響力を誇る王のシア・ヌークと協力した(後で軟禁したけどね)
・アメリカの息のかかったロン・ノルが腐敗政治を行っていたので、民衆は唯一の反対勢力であるポル・ポト派に頼った
こう考えると、もし世の中が冷戦なんかしていなければ。もしロン・ノルが腐敗政治をしていなければ。こんな悲劇は起きなかったのでは?不運が重なって「カンボジアの悲劇」が起きてしまったように思えてなりません。
ポル・ポト派の考え方
ポル・ポトが理想としたは「原始共産主義」というもの。簡単に言うと「みんなで原始時代に戻ろう」という考え。文明・貨幣なんていらん。みんなで畑を耕して自給自足で行こうという考え。なんでそんな考えに至った?動機は以下のようです。
ポルポトはフランス留学中に、植民地主義を徹底的に憎むようになりました。白人がカンボジアでバカンスを送っていることも海外企業が国内に店舗展開していることも憎み、海外から来たものを全てをカンボジアから無くすことを目指したわけです。
大昔カンボジアにはクメール王国という世界でも類をみない大帝国が存在しました。ポルポトは共産主義を用いてこの時代に戻ることを夢見ました。国民全てが差異のない国民となり、国のために農産物を生産し党の指導のもと国民を教育しなおし理想的な社会主義国を作ろうとしました。まじりっけのないカンボジアを作りたかったのです。
文明コンプレックス、白人コンプレックス、だったのかもしれないですね。
ポル・ポト派の大虐殺
原始時代に戻るためにまず必要な事は知識人を根絶やしにすること。原始時代に知識人なんていないし、政権を乗っ取られたら困るということもあったんでしょう。こんなノリで虐殺していったそうです。
農作業に従事している人に布告が出されます。「医者・教師・技術者・学生だった者は名乗り出てほしい。国の再興には君たちの力が必要だ」とこんな感じの布告でした。当然、該当する人は名乗り出るわけです。「これで辛い農作業から解放される」 わけですから、これらの人々は拍手の中、みんなに見送られます。しかし、彼らの中に帰ってくる人は一人もいませんでした。彼らには「再教育」という名の処刑が待っていたのです(ToT)/~~~
この知識人狩りは次第にエスカレートしていくことになります。以下は当時、本当にあった事例です。
「本を読んでる」←文字が読めるなんて知識人だから殺す(^_^メ)
「海外行ったことある」←海外行くなんて知識人だから殺す(^_^メ)
「ラジオを聴く」←ラジオを持ってるなんて知識人に違いない殺す(^_^メ)
「旧貨幣を持っている」←反体制派だから殺す(^_^メ)
ここまではまだ良い方です・・・。
「子どもに教育した」←我々と異なる思想を植え付けたから殺す(^_^メ)
「腕時計をしている」←腕時計しているなんて知識人(略)(^_^メ)
「恋人がいる」←社会風俗を乱すから殺す(^_^メ)
果ては・・・
「眼鏡をしている」←眼鏡をしているなんて(略)(^_^メ)
「手が綺麗」←畑仕事をしていなかった知識人だから殺す(^_^メ)
「イケメン&美女」←もう理由なんていいや、殺す(^_^メ)
ポルポト政権下では知識がなく思想に染まりやすい13歳以下の子供が重要な役割に付かせられ、子供が大人を監視する社会が生まれました。
じゃあ子供は安全だったのかというと、そうでもないです。教養のある医師や僧侶や教員などの要職についていた人の子どもは、赤ん坊であっても問答無用に殺されました。何れ恨みを持ち体制の敵となると考えられたからです。赤ん坊は両足を持たれ、頭を大木に打ち付けられ殺されました。
当時は知識人や反対派の密告を奨励し、密告されたものは問答無用に処刑されました。夫が妻を、妻が夫を、子供が親を密告する空気が生まれます。そうしないと自分が殺されるから。まさに泥沼の地獄絵図。
人口が激減し若者だらけになった
そんな無茶苦茶な体制も長く続くわけではなく、結局1979年ベトナム人がプノンペンを陥落、カンボジア人のナイトメアは終焉を迎えます。でも虐殺の結果、当時800万人いた人口が約600万人に減って国民の85%以下が14歳以下になってしまいました。なんという非人道的な少子高齢化対策や?
実際にキリング・フィールドに行くと、ざっくりした当時の状況をナウンスレコーダーで学べます。だけど、上に書いたようなことを事前に頭に入れておくことは、カンボジアに行く時の礼儀かなんて思いながら纏めてみました。